人間

人間にんげん

われは 『しん 』なり。
しん 』より つかわされたる 天使てんのつかいなり。
しん 』より りかがやく 『ひかり』なり、
まよいしょう する 『ひかり』なり。
われは 『みち』なり、
こと おこなうものは みちにそむかず。
われ生命いのちなり、
われものまず せず。
われすくいなり、
われたのものはことごとくこれを 摂取せっしゅして 実相じっそうこく じゅうせしむ。
天使てんのつかいかくの ごとたまえば
てんどう また かさねて う。
よ、 人間にんげん本質ほんしつあきらかになし たまえ。』
天使てんのつかい こたえたまわく───
人間にんげん物質ぶっしつあらず、
肉体にくたいあらず、
脳髄細胞のうずいさいほうあらず、
神経細胞しんけいさいほうあらず、
けっ きゅうあらず、
けっ せいあらず、
筋肉細胞きんにくさいほうあらず。
それらすべてを あわせたるものにも あらず。
なんじら、よく 人間にんげん実相じっそうさとるべし、
人間にんげんれいなり、
生命せいめいなり、
不死ふしなり。
かみ人間にんげん光源ひかりのみなもとにして
人間にんげんかみより でたる ひかりなり。
ひかり光源こうげんはなく、
光源こうげんひかりはなし。
ひかり光源こうげんとは 一体いったいなるが ごと
人間にんげんかみとは 一体いったいなり。
かみれいなるが ゆえ
人間にんげんまた れいなるなり。
かみあいなるが ゆえ
人間にんげんまた あいなるなり。
かみ知恵ちえなるが ゆえ
人間にんげんまた 知恵ちえなるなり。
れい物質ぶっしつせいあらず、
あい物質ぶっしつせいあらず、
知恵ちえ物質ぶっしつせいあらず、
されば、  
れいなる あいなる 知恵ちえなる 人間にんげんは、
物質ぶっしつなんかかわるところなし。
まことの 人間にんげんは、
れいなるが ゆえに、
あいなるが ゆえに、
知恵ちえなるが ゆえに、
生命せいめいなるが ゆえに、
つみおかすこと あたわず、
やまいにかかること あたわず、
めつすること あたわず、
つみも、
やまいも、
も、
畢竟ひっきょう なんじらの あく ぎず。
なんじ生命せいめい実相じっそう かくせよ。
なんじらの 実相じっそうたる 『真性しんせい人間にんげん』を かくせよ。
真性しんせい人間にんげん』は 神人しんじんにして
かみそのものの 姿すがたなり。
ほろぶるものは 『真性しんせい人間にんげん』に あらず。
つみおかすものは 『真性しんせい人間にんげん』に あらず。
やまいかかるものは 『真性しんせい人間にんげん』に あらず。
じょう人間にんげんよ、
われ なんじらに ぐ、
なんじ しん本性ほんせい かくせよ。
なんじ しんは 『真性しんせい人間にんげん』にして、
そのほかの 如何いかなるものにも あらず。
されば 人間にんげんしん より とき
つみおかこと あたわざるものなり、
やまいかかこと あたわざるものなり、
ほろぶること あたわざるものなり。
たれう 『罪人つみびとよ、 罪人つみびとよ』と。
かみ罪人つみびとつくたまわざるが ゆえ
この 一人ひとり罪人つみびともあらず。
つみかみ本性ほんせいはんす、
やまい生命せいめい それ しん本性ほんせいはんす、
生命せいめい それ しん本性ほんせいはんす、
つみやまいとは、
畢竟ひっきょう 存在そんざいせざるものを ちゅうえがける 妄想まよいのかげぎず。
実相じっそう世界せかいおいては
かみひととは 一体いったいなり、
かみ光源こうげんにして
人間にんげんかみより でたる ひかりなり。

つみやまいとが
実在じつざいすると あく を、
人間にんげんせしむる 根本妄想こんぽんもうぞうは、
ふるくは、
人間にんげんちりにて つくられたりと 神学しんがくなり。
ちかくは、
人間にんげん物質ぶっしつにて つくられたりと 近代きんだい がくなり。
これらは 人間にんげんつみやまいとの 妄想もうぞうみちび最初さいしょゆめなり。
この 最初さいしょゆめさい するときは
つみやまいとの
根本原因こんぽんげんいんさい せられて
その 本来ほんらいするなり。
なんじら 『せい ちょういえ』を んで しん やまいゆるは
この 最初さいしょゆめさい せらるるが ゆえなり。
最初さいしょゆめなければ
つぎゆめなし。
ことごとゆめなければ 本来ほんらい 人間にんげん 清浄しょうじょうなるが ゆえ
つみおかさんと ほっするも
つみおかすこと あたわず、
ことごとゆめなければ しょう びょうなるが ゆえ
やまいかからんと ほっするも
やまいかかること あたわず、
ことごとゆめなければ 本来ほんらい かぎりなき いのちなるが ゆえ めつすること あたわず。
されば じょう人間にんげん
こころつくして 自己じこれいなる 本体ほんたいもとめよ、
これを ゆめ妄想もうぞうとの 産物さんぶつなる 物質ぶっしつ肉体にくたいとに もとむること なかれ。
キリストは 
かみくになんじらの うちにあり』と たまえり。
まことまことにわれ なんじらに げん。
なんじらの うち』とは なんじら 『人間にんげん しょう』なり、 『しん人間にんげん』なり。
なんじらの うちすなわち 『 しょう』は 神人しんじんなるが ゆえ
なんじらの うち』にのみ かみくにはあるなり。
そとにこれを もとむる ものゆめいて はしものにして
永遠えいえんかみくにこと あたわず。
物質ぶっしつかみくにもとむる もの
ゆめうて はしものにして
永遠えいえんかみくにつる こと あたわず。
キリストは また たまえり、
くにくににあらず』と。
くにただ かげにすぎざるなり。
じょう らくこく うちにのみあり、
うちじょう らくこく かくしてのみ
そとじょう らくこく うつしとして 顕現けんげんせん。
うち げん 健康けんこう生命せいめい かくしてのみ
そと肉体にくたい げん 健康けんこううつしとして 顕現けんげんせん。

人間にんげん かんはただ 『うつしの かい』を るに ぎず。
うつしの かい』を きよめんと ほっすれば こころ原版げんばんきよめて
まよい てんのぞかざるべからず。
われ まこと物質ぶっしつ かいむなしきを たり、
物質ぶっしつ かいかげぎざることを たり。
われはまた 人間にんげんかみより 放射ほうしゃされたる ひかりなる ことたり。
肉体にくたいはただ こころかげなる じつたり。
なんじら、 物質ぶっしつうつりかわる かげにすぎざること
あたかそう とうはしうまごとし。
されば、 かげ実在じつざいとなすことなかれ。
人間真性にんげんそのものはこれ 神人しんじん
永遠えいえん 不壊ふえ めつ霊体れいたいにして
物質ぶっしつをもって つくかためたる かいにあらず、
また 物質ぶっしつそんしてそれに れい宿やどりたるものにもあらず、
くの ごと 元論げんろんことごとあやまれり。
物質ぶっしつかえってこれ れいかげこころ産物さんぶつなること、
あたかまゆ存在そんざいして かいこがその なか宿やどるには あらずして、
かいこいときて まゆつく
まゆなかにみずから かいこ宿やどるが ごとし。
人間にんげん真性しんせいれいなる 生命せいめいにして
こころいとあわせて 肉体にくたいまゆつく
その まゆなかにわれと れい宿やどらせて、
はじめて ことば肉体にくたいとなるなり。
なんじあきらかに れ、 まゆかいこあらず、
しからば 肉体にくたい人間にんげんあらずして、
人間にんげんまゆぎざるなり。
とき きたらば かいこまゆやぶって 羽化うか 登仙とうせんするが ごとく、
人間にんげんもまた 肉体にくたいまゆやぶって 霊界れいかいしょう てんせん。
なんじけっして 肉体にくたい めつをもって 人間にんげんとなす なかれ。
人間にんげん生命せいめいなるが ゆえ
つねらず。
想念こころしたが
ときしたが
必要ひつようしたがいて
肉体にくたいきょう ぐうとに 様々さまざまじょう たいあらわせども、
生命せいめいそのものは むに あらず、
生命せいめいそのものは するに あらず、
想念こころうることによって
よく なんじらの 健康けんこうきょう ぐうとを うること ざいなり。
されど なんじら、
ついに 生命せいめい肉体にくたいまゆ必要ひつようとせざる とき いたらん。
かくの ごときとき、
生命せいめい肉体にくたいまゆやぶって
一層いっそう ざいきょう 天翔あまかけらん。
これをもって 人間にんげんとなすなかれ。
人間にんげん本体ほんたい生命せいめいなるが ゆえ
つねすることあらざるなり。

───かく 天使てんのつかい かたたまうとき、
くうには みょう天楽てんがくこえ きこ
はなびら何処いずこよりともなく あめふりて、
てん使つかいたまえる しん をば
さながら たたうるものの ごとくなりき。

せい きょう おわり

解題

甘露の法雨、最後の節です。「人間」。
さて、甘露の法雨は全部で8節から成っています。ちょっと復習。

  1. 物質
  2. 実在
  3. 知恵
  4. 無明(まよい)
  5. 人間

これを「実在側」と「非実在側」の二つに分けて見てみましょう。

「実在側」と言うのは、お経の文脈上でのポジティブ、「非実在側」と言うのはネガティブと言えます。この8個の節タイトルをこの2組に分けると。。。

実在側非実在側
1.神
2.霊

3.物質
4.実在
5.知恵

6.無明

7.罪
8.人間

神=実在で始まり、人間=実在で終わる8節の構造。実在を語ることがこのお経の目的であろうと感じます。

「神は実在」は第1節で語られています。しかし「人間」、つまりわたしたちは時に過ちも犯すし、戦争や犯罪によって苦しめられたり苦しめたりする、悩み多き存在、弱き存在です。この悩める弱き人間を、どうして実在と言えるのか。

このお経の中での人間は、その実体として「神人」であると言い切られています。私たちが知っている普通に歩いている人間は感覚で見える世界の人間ですが、その本当の姿(実相)は感覚に映ることのない実在、神人なのです。

前節まで、何回も現れてきている「感覚は実在を観ない」の論法がここにも使われていて、本当の人間は感覚に見えないものとして表現されていますね。。。

ここが、このお経のすごいところだと思うのですが、見えないもの、いかなる方法をもってしても測定できない事柄を言葉で表現しようとしているのです。これは普通には証明不可能なもの。「罪人はいない」と言われても、常識的に理解できない。「人間は死なない」と言われても、常識的には理解できない。

常識的、つまり感覚で認知できることは真実ではない。真実は感覚を超えたものである、と、これまで何度も強調されてきました。ではその真実とはどんなものなのか。神は実在、したがって、霊も実在。霊が形を備えたものが人間。だから、人間から目に見える部分を取り除いたもの、霊的な意味での人間は実在である、と言うことになります。

神が実在であり、霊も実在であるなら、神の善性は霊の上にも現れているはず、神が愛であるなら霊も愛である、神が知恵の源泉であるなら、霊は知恵の支流である。そして、霊が人間なのである。。。この論理が人間の善性を保証します。

つまり、このお経は観測的な事柄の記載として、ご利益を謳っているのではなく、論理的に、神の実在から人間の実相の実在を導き出しているんです。こんなお経、今まで無かった!

科学の立場から言いますと、観測できないものは少なくとも実験科学の中では扱えない。では観測できないものを扱う科学ってないのだろうか?

ありますね。。。

心理学はぎりぎり実験できない。統計的には可能ですが、ある人の心の中をリセットしたり、二人の人の心をまったく同じ状態にしたりと言った、厳密な意味での実験はできません。

考古学や進化論は1億年という時間をかければできますが、これも厳密にはできない。

一方、数学はバリバリ科学ですが、実験は証明の形で行われ、一度成立した論法は、だれでも安心して使用してよい。

つまり、論理が明確であれば、科学の中に数えられる。

一昨年(2018年)惜しまれつつなくなったホーキング博士は、「神はいない」と死の直前に語ったといわれますが、正確には、「自然の法則以外に自然界を操作する超越的な意識としての『神』はいないと考えたい」と言ったようです。

甘露の法雨の『神』は、自然界そのものの創造主であり、自然界の法則そのものです。自然界の外に神が有るのではなく、神の中に自然界がある。だから、自然界を有ると考えるならば、神は存在する。(甘露の法雨の中では、自然界の目に見える姿は実在じゃないですけれども)

この辺り、なかなかややこしい。 

ともかく、甘露の法雨に書いてあることは観測不可能・実験不可能。ただ、神の実在を出発点とした演繹的論理なんですね。この出発点は、ホーキング博士をはじめ、うなずかない人も居るところですが、この世界が存在していることをもって、創造主の存在を信じよう、という立場で書かれています。その最初の了解をしていただければ、かなりの深い味わいがあるのではないかなと、私は個人的に、ですが、思います。少なくとも、科学的には否定しがたいと考えています。

いつか、図解してみますね。。。


(20200107)


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